それでもまだ自分のことばかり

関係性だったり、これからの未来という点で、昨年とは違った年末になった。

一方で、考えるべきは一番肉体的に近い他者であるはずなのに、私は私のことしか考えていないと最近強く思う。自分が幸せでないと他者も幸せになれないと思っていたけど、それは本当に正しいのか。自分を主語に語りすぎているのではないか。蔑ろにしていないか。

なんとかなるさと思う日もあれば、ただただ恐怖を感じることもある。(それはホルモンの影響なのか?)

きっと来年の年末は、また違う自分なんだろう。

自分も、あなたたちも、幸せでありますように。私なりに、愛しているよ。

肥大した自意識を捨てたい

少女漫画を養分として、肥大した自意識が私をこじらせてしまった。言葉を与えることで解きほぐして、はやく楽になりたい。呪いのような自意識から解放されなくてもいいから、穏やかな自己になりたい。

 

・多くの少女漫画は、「ありのままの私を好きになってくれる・好きでいてくれる人との関係性や出来事を描く物語」あるいは「ありのままの私を好きになってくれる人を探す物語」というのが根本にあるのではないだろうか。

好きになってくれる人が見つからない、あるいは関係性がうまく結べずに終わる作品も多くあるけれど、その場合は「自分を好きになるのは自分」という、「自分をまるごと肯定する」という結末に着地をするのがほとんどな気がする。

 

・ありのまま=「努力をしない」ということではない。外見に関わることでも、仕事もしくは学業に関することでも。もともと持っている才能のみによって進んでいく物語もあると思うが、(少なくとも私は)好かれるに足る理由がないと感じてしまって、共感できず、おもしろいとは思えない。「努力をできること」も、その人の能力として織り込まれいて欲しいのだ。

 

・上記が「少女漫画を養分とした」ことのベース。それに加えて、「ありのままの自分」が意味するものには、女性性を加味しないで欲しいと願ってしまうのだ。

それは、異性愛の男性に対して、「女性という身体でなく、私という精神を愛して欲しい」「私が女性でなかったとしても愛してくれる?」という願望を意味している。性に関わらず無条件の愛情が欲しい。

 

・「女性性にとらわれたくない」というのは、どこから来たんだろう。外見が可愛くないという自分自身へのあきらめは大いにあったとは思う。「かわいい」と言われることなんてほとんどなくて、「賢い」「頭がいい」といわれてきたから。「女性」がもつネガティブなステレオタイプ(感情的、論理的でない等)を鵜呑みにして、私は「女性」ではないとも思っているのかもしれない。心の奥底の片隅で。

 

・「あなたが女性だから愛している」と言われたら、私は傷つく。「女性でなくても愛して欲しい」と言って欲しい。それは、「体を交えなくても、話しているだけで十分」ということと、私の中では同義。

 

・ただ、自分がどう思おうが、女性であることは自己の精神を形作る要素のひとつ。

さまざまなものが私が女性であるがゆえの対応をしてきた。それに呼応する形で私が形づくられているから、いまさらその要素を排除して「私」とするのは不可能。だから、「女性でなくても」という願いは叶わない。

 

・でも、わたしは「あなたが男性だから愛している」と言ってしまう。もし相手が傷ついていたら、「男性であることも含めてあなたを形作っているのだから、男性を愛することはあなたを愛することで、なにも傷つくことはない」と慰めてしまうんだろうけど。そんな言葉じゃ、自分は慰められないのにね。

 

疲れたからいったんおわり。また自分のなかで整理できたらかこう。

11PM

Jimmy FallonのTonight Showを見、

wikipediaから辿って11PMの最終回を見る。

 

昔のTVは女性の裸やら当たり前なんやなというありきたりの感想と、

大島渚さんやら荒木経惟さん、井上ひさしさんなどという、

芸術家・文化人と私が認識しているひとがコメントをだしていて、

世俗と文化史がまざっていて面白かった。

 

評論家の小中さんが番組内でいう、

「カウンターや反体制としての裸が次第にただの裸になって、

番組が大きく風俗っていう風になっていったんじゃないかね」っていうのが、

番組の変遷を表してるんだろう。

 

「一直線に辿ってどんどん行こうという時代が、

うろうろしてもいいんじゃないか、いい意味でいい加減だった」「大人が多かった」

 

もはやノスタルジーでしか語られず、起こり得ない文化。

良し悪しではなく、そういう時代だったと総括するしかない。

 

いまの時代を20年後に見たとき、どのように思うのか楽しみだ。